2020-03-25 第201回国会 衆議院 文部科学委員会 第6号
その際申し上げたとおり、我が国の初代文部大臣は我が郷土鹿児島の大先輩である森有礼でありますので、だからというわけじゃありませんが、こうして立たせていただいたこと、大変感謝しております。 そうした中でお伺いをしたいと思います。
その際申し上げたとおり、我が国の初代文部大臣は我が郷土鹿児島の大先輩である森有礼でありますので、だからというわけじゃありませんが、こうして立たせていただいたこと、大変感謝しております。 そうした中でお伺いをしたいと思います。
あわせて、NHK大河ドラマ「西郷どん」の放送もあり、まさに文化を起点として多くの方々にお越しをいただき、盛り上がっているわけでありますが、実は、その鹿児島が輩出したのが初代文部大臣森有礼であります。伊藤内閣、そして黒田内閣において文部大臣を歴任したわけであります。
○宮路委員 今回の改正法案、しっかりと成立をしていただき、そして我が国の文化行政が力強く推進することを願い、森有礼初代文部大臣に対し、しっかりとした質問ができたか、きょうの夜、目を閉じながら聞いてみたいと思います。 ありがとうございました。
文部科学省には、森有礼初代文部大臣の自警の書が掛かっております。初代文部大臣は、文部行政の重要性とともに、最後に、「その職に死するの精神覚悟せるを要す」と結んでいるわけであります。 改めて、現代的な意味として文科省にその覚悟があるのか、意識をどう変えようとしているのか、文科省の御見解をお聞かせください。
当時から、例えば森有礼さんなどは英語公用語論を唱えたように、そのころから、これからの国際社会で日本が生き抜いていくためには英語が必要であるということは叫ばれていたわけです。
もう一つは、大日本帝国憲法制定時における、伊藤博文と、初代文部大臣として有名な森有礼の論争でございます。 明治憲法第二章の臣民の権利義務に対して、森有礼は、臣民は、天皇に対して、責任は持っているが権利などは持っていないとして、臣民の権利という文言ではなく、臣民の分際とすべきと主張したそうでございます。
だから、採用の際にも、教員の免許を持っている人あるいは特別免許的な扱いのできる人、こういう人をやはり考えて採用をするとか、そういうことも含めてやっていく必要があると思いますし、何よりも、私の部屋にも書いてあるんですが、森有礼さんが、文部省の本来の責務はということ、これは国に教育権のすべてが集中していた明治に書かれたものですから、このとおりやるというわけにはもちろんいかないんですけれども、ここに書いてある
そして、当時、公議所の議事取調掛の森有礼は、御国体の儀に付問題四条を建議いたしております。 といいますのも、その中は、第一は封建と郡県が併存をしているのが現状であるということで、将来の国是をどうするのか。また、封建にするのか、郡県にするのか、その場合の理非得失は何か、まさにメリット、デメリットの問題であります。そしてまた、第三には、封建にする場合にはどのような措置が与えられるか。
先ほど来、副大臣も長州の出身だということで、廃藩置県の話も出ているわけでありますけれども、さきの森有礼の建議のように、実際、廃藩置県を行う際にも、公議所の方で八つも議案が出たそうですね。その八議案のうちの、実質的な郡県制という、まさに道州制に結びつくものは、その意見の中の全体の五分の一にも満たなかったそうであります。
それに対して、文部卿森有礼は教育という言葉を使われました。さらに、福沢諭吉は、いや、それだけではない、人間の中に内在する力等々を啓発することもまた教育の大事な仕事であると。ちなみに、エデュケーションという言葉のラテン語の原語はエデュセール、引き出すという意味でございますので、福沢諭吉はそのように言葉を追加いたしました。
実は、文部省の初代文部大臣でありました森有礼初代文部大臣の「自警」というのがありますが、あれを読んでみますと、最後のところに、死ぬ覚悟で文部行政に取り組め、こう書いてあるんですね。やはりそういう精神、それは命の大事さとかなんとか言えばまた別な議論になってしまいますけれども、やはりそういう思いというのがこれまで日本の武士道の中に流れておった。
そういう中で、これはこの前申し上げたかもしれないですけれども、初代文部大臣森有礼さんが三重県にやってこられまして、そして郡長あるいは県議その他の人を集めて演説をしておられるんです。演説というか、その当時は演説と言わずに大臣として教訓を垂れるというかな、訓示を垂れるということですね。
そこで、森有礼さん、初代文部卿ですね。文部大臣、初代文部大臣です。これ、文部省に対して自分が自ら、「自警」、自ら自分を戒める、そこにこういうことが書いてある。「文部省ハ全国ノ教育学問ニ関スル行政ノ大権ヲ有シテ」、行政の大権を有している。「其任スル所ノ責随テ至重ナリ」と。大変重たい。
私も森有礼初代文部大臣がお書きになりました自警の書を、そのまま唯一私は自分の部屋に飾ってございます。これは歴代の大臣がそのようになさっていたからでもございます。日々あれを仰いでおります。そして、文部省の持っている仕事の重要さというものをしっかりと常に考えろ、そして事が成ったと思ってもそれで満足をするな、更に進め、更に図ってますますその任務を遂行せよ、そしてその職に死することを覚悟せよと。
エデュケーションを何という日本語にするかをめぐりまして、森有礼文部卿と福沢諭吉との間に意見の対立があったというふうに巷間言われておりますが、実際には意見の対立ではなくて、二人は非常に仲のいい議論をしておりました。余計なことですが、森有礼の仲人が福沢諭吉でありましたので、二人は大変仲がよかったと思います。 森有礼は、このエデュケーションの訳語として教育という言葉を最初から使っておりました。
実は、これは日本国憲法、憲法学の上で立憲主義というふうに呼ばれてきたものでありまして、これは、大日本帝国憲法をつくるときにその憲法制定の中心人物でありました当時の枢密院議長、伊藤博文が、後で文部大臣になる森有礼の質問に対して答えている中で、このように憲法というものは国の権限を縛るためにつくるものなんだ、それでなければ憲法をつくる意味はないのだということを伊藤博文でさえもわかっているわけであります。
今、大学改革が相当なエネルギーで進められておりますけれども、これ振り返ってみますと、日本に帝国大学令というのが出ましたのが一八八五年、明治十八年、これ森有礼文部大臣のときに帝国大学というものができました。そして、一九四九年、昭和二十四年でございますけれども、国立学校設置法というのができまして、帝国大学でいろんな帝国大学、東京帝国大学とかできまして、二十四年に帝国が外れて東京大学になったんだと。
これはもう明治憲法制定のときから、伊藤博文、森有礼あたりから、森有礼はちょっと例外かもしれませんが、憲法制定の要諦は義務を定めることにはなくして権利を保障するにありということです。権利を保障するということが国家の責務を明らかにすること。責務の主体は国家でありまして、国民が義務の主体であるというのは憲法の常道ではありません。 が、最小限、国民の義務について言及をするということは必要かもしれません。
○山本正和君 そこで、これはちょっと蛇足かもしれませんが、我が国は、明治憲法ができてから、いわゆる文部大臣、初めは文部卿と言ったんですが、ずっと続きまして、文部大臣になったのが明治十八年、森有礼が初代。遠山大臣は調べてみたら百二十六代。有馬先生が百二十二代。中曽根先生、それぞれ歴代の大臣がずっとお見えになりますが、それぞれの中で一生懸命頑張っておられたと私は思うんです。
明治十九年ですか、文部大臣森有礼が大学令ほかいろんな制度をつくりまして、日本の学校制度をつくっていくというわけでございます。それは現在のような六三三四制での単線のものではありませんで、いろいろな組み合わせの複線のシステムであったわけでございますし、そして、初等中等教育においてはいわゆる忠君愛国を徹底的に教え込む。
これは、明治憲法のときの伊藤博文が森有礼と論争している、そのとき既に伊藤博文の方が述べている、いわば憲法というもののスタートラインにある大前提なのですね。日本の憲法は、日本の国家、日本の公権力に対して、戦争はしてはいけない、軍隊を持ってはいけない、そういう限界を設けているわけです。ですから、日本政府はその限界の中でしか動くことができない、こういうことであって、もう一点ありましたね。
それは、福沢諭吉と初代文部大臣であった森有礼、この間でされたという記事を拝見しました。 福沢諭吉は、人間はだれでもすばらしい能力を持っているのだ、これを引き出してやるのが教育である。要するに、教育をもっとじっくり時間をかけてやらなければいかぬということを言われた。
○森山眞弓君 大臣はきっと御存じだと思いますけれども、文部大臣室の片隅に初代の文部大臣森有礼さんの書がかかっております。